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2008.4.17 天の父なる神様( 미와노부오목사)

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이선복 2008-04-16

2008.4.17 일본어채플 순서

* 진행(司会): 엄필교 교수
* 찬양(賛美): 賛美せよ、わが岩なる神よ、主はあなたを守る方
* 기도(お祈り): 김훈(일본어과 3학년)
* 메시지(メッセージ): 미와노부오 목사(일본복음선교회)
  - 天の父なる神様(マタイの福音書6:9-13)


그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며, 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것같이 땅에서도 이루어지이다. 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고, 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서(나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다. 아멘)

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。

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天にまします我らの父よ  マタイ6:9-13
これは、主の祈りは、弟子たちが「私たちに、祈りを教えてください」と求めた時、「このように祈りなさい」と教えた、「弟子たちの祈り」「主が教えた祈り」。主の祈りの構成は、呼びかけの=「天にまします我らの父よ」と、結びの賛美=「国と力の栄とは限りなく汝のものなればなり」の間に、6つの願いがある。呼びかけの「天にまします我らの父よ」の意味を学ぶ。
        I 天におられる神さま
(1)「天におらる」とは、神が場所的に、空や宇宙にいる意味ではない。ソロモンは「もろもろの天も神を入れることができない。天はその御座、地はその足台」と語る。(I王8:27)神を一定の場所、形、物、絵画の中にとどめてはいけない。それは、偶像礼拝である。小教理問答では、「神は、無限、永遠、普遍の霊である」と表現している。我々人間は時間、空間の制限がある。この場所に居たら別の場所にいけない。子供時代にも、昨日にも行くことはできない。しかし、神は過去に戻ることも、将来に先に行くこともできる。空間にも時間にも制限されない。また、我々には、難しいことや不可能なこともあるが、神には不可能はない。神の子供の益になり、善になることのために、どんなことも出来る。
(2)「天におられる」をカルヴァンは次のように解説する。「我々にとり、天という言葉以上に、神の崇高さと高さを表すに相応しいものはないから」という。すなわち、神が聖にして、絶対者であり、この世界を超越しする神であることを、「天」で表現する。それゆえ、神を、人間の理性で理解したり、人間の感情で想像したり、仮定したりしてはいけない。これらは、ヒューマニズム、人間中心の信仰である。我らは、聖書で神が教えることを、そのまま、信じ、アーメンと従うだけである。
(3)パウロはいう。「ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず、深いことでしょう。」(ローマ11:33)。また、形作られた陶器が、陶器師に向かって、なぞあなたは私をこのようにしたのですか、といえない。我々はただ、造られたものとして、神に謙遜に従うだけ。
(4)「神の宮に行く時は、自分の足にきをつけよ。神の前で、軽々しく、心あせって言葉を出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」(伝道5:1-2)。我々は、神の前に謙遜になって祈らねばならない。
(5)信仰生活の基本は、神に対する恐れを持つこと、謙遜な心が一番最初である。これがないと、信仰生活の土台が間違ってくる。教会の礼拝堂に入る時、神のいる場所に入った意識と態度と言葉をもつべき。まず、静かに黙祷し、神の前に謙遜になることから始める。スポーツ選手は運動場、道場、体育館に入る時、その場所で自分を訓練する神聖な場所という意識で、帽子をとり一礼して入る。その中で、試合や練習で自分を鍛え、育てる。まして、クリスチャンが神の宮である教会堂に入るとき、学校の教室や家と同じ同じ気持ちで入ってはいけない。この世界のだれよりも偉い方と会い、自分の魂と人生を作る場所という気持ちと、謙遜な心をもって入るべきである。その人が、信仰も成長し、神の恵みを受ける。楽しく、喜びの時を持つのはよいが、周囲に迷惑な無駄話や、不真面目な態度はしてはいけない。
(6)祈りの最初に「天に居ます神」と呼びかける大切さは、イエスお教える祈りとは、他の宗教の祈りと違い、最初から最後まで、神に対するおそれをもち、謙遜な心で祈ること。
II  我らの父
(1)「父なる神」と呼ぶのは、神が愛の神であり、我々を子供として愛しておられる。 他の宗教のように、いけにえをささげなければ祈りを聞かない、罰を与える恐ろしい神ではない。神は我々の父、我々は神の子供として、祈りを聞いてくださる。
(2) ある人が、聖書は父なる神と表現し、男女を差別するという。モルモン教は、それで母なる神をつくっている。しかし、聖書で、父なる神というのは、女性差別の神でも、厳しいでも、男性中心の信仰でもない。これは、聖書の書かれたユダヤの社会で、彼らの経験する中で、神の愛を理解できる一番相応しい言葉が、父の愛だからである。父の愛が、母の愛をはじめ、すべてを包括しているのである。
(3)イエスの放蕩息子のたとえ話で。父の財産をもらい、遠い国でその財産を全部使ってしまった息子が、父の家に帰ったが、父はその息子を、奴隷としてでなく、着物を与え指輪をあたて、美味しい食事を与えて、家に迎え入れた。父が、全ての愛を表現している。 母親が出てこないが、母親の愛がないのではない。父の愛は母の愛も含めている。
(4) 十戒の第5戒めに、「父と母を敬え」と両親への義務を教えている。「我が子よ。父の命令を守れ、母の教えをすてるな」(箴言6:20)と聖書では両親を対等に教える。それゆえ、父の愛という表現は、ユダヤ社会における特殊性で、父が両親を代表し、父の愛が、家族のすべての愛を表しているからである。
(5) イザヤ49:15「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。」ここでは、神の哀れみの愛を描くために、母の愛にたとえとして描いている。決して、神の愛が、二種類あるのではない。
(6)ルカ「あなたがたは悪いものであっても、自分の子どもには、よいものを与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられルあなた方の父が、どうして、求めるものたちに、良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)。ここから、天の神が、父なる神で、祈るものに必ず良いものを与えることを教える。
(7)祈るときは、子供に対する神の絶対の愛、無条件の愛を信じて祈ることを教え、必ずこたえてくれるという確信を与える。
(8) 以上、「天にいます聖にして絶対者なる神」が「父なる神」であると、矛盾することをイエスは教えた。天の神であれば、絶対者、超越神、神と我々の関係は永遠に離れている。 神と我々は「主人」と「僕」の関係である我々は、この神の僕であり、絶対服従が義務である。しかし、この神が、「父」と「子」という関係になった。その根拠は、イエスキリストの贖いである。キリストが我々の罪の身代わりに死に、我々の罪が許され、神との和解が成立した。キリストが長子で我々が兄弟となっり、神の子とされた。それで、「父なる神」と呼ぶことが出来る。
(9)「天にいます父なる神」と呼ぶのは、単なる神を呼ぶ称号ではない。そのように呼んで祈れるのは、キリストの十字架が可能にした。以上、「天にましますわれわれ父よ」と、祈り始める前、神を呼ぶときから、我々は、キリストから切り離されて祈れないことを学ぶ。我々の熱心で祈るのではなく、キリストの恵みを覚えながら祈る祈りが、クリスチャンの祈りである。
III 我わらの神
(1)「我々の父よ」というのは、クリスチャンが教会という家族であることを教える。個人で祈るが、神は、神の子供たちが教会という家族で一緒に祈ることを喜ぶからである。親は、子供が一人で親にお願いをするのを聞くが、子供たちが仲良く一緒に親にお願いをするのをもっと喜ぶ。そのように、父なる神は、神の子供たちが、個人でお祈りするよりも、神の家族が、教会で一緒にお祈りするのを聞いてくださる。こうして、「我わらの父よ」というお祈りをすることを教えながら、キリストは、クリスチャンが教会で一緒に祈ることを神が喜んでいることを教える。祈祷会は、礼拝と共に、神が祝福する恵みのときである。
(2)さらに、「われわらの父よ」というとき、祈りは、自分一人だけの祈りだけではなく、兄弟姉妹のためにも祈ることを教える。教会のために、兄弟姉妹のための、取り成しの祈りである。
(4)むかし、日本で熱心な青年がクリスチャンになった。彼は、礼拝、聖書研究会、祈祷会に休まないで出席した。だいぶして、「牧師先生、僕はいつになたら、あの先輩のように、祈祷会に休むことができるのですか」と質問したという。教会での祈祷会は、祈りが答えられる恵みのときである。また、それは、神が願っていることであり、教会を一致させ、教会の力となる。祈祷会を大切にして、祈りがどんどん答えられ、信仰が成長し、教会が成長するように願う。
IV 結論
イエスは、我らの神を「天の神」であり「父なる神」と教えた。絶対者であり同時に愛の神である。真実の神はこの両方の性質をもっている。戦争中、天皇を神とし、同時に仏教を神とした。天皇の神は、絶対者の神であり人は天皇のために死ぬことが義務。しかし、国民は、お寺で仏教の神に、死なないで生きるように祈った。聖書なしの信仰は分裂している。キリストは、天の神、父なる神に我らを導き、祈りをする恵みを与えた。恵みに感謝して祈りをしたい。